原案キューブリック・監督スピルバーグのSF映画『A.I.』についてネタバレ感想&考察で徹底解説!
気持ち悪い?ホラー的で子供はトラウマ?傑作に至らなかった理由とは?人工知能やロボットは人間のエゴが生む?2000年後は宇宙人?彼らも創造主を探す?
20項目で徹底解説していきます!
いざ、SFの世界へ…!
A.I. のネタバレ感想・考察・徹底解説 (Ryo)
本日は、2001年公開、スピルバーグのSF映画『A.I.』についてネタバレ徹底考察!
公開から20年が経過した本作ですが、今みても色あせない魅力があるように思います。
親子愛を表現した感動作品、ロボットと人間の論争物語、人間のエゴイズムを語る哲学映画。
などなど、傑作要素はたくさん詰まっているのに、世間的にいまいち評価良くなかったのはなぜなのか?
気持ち悪い、子供にはトラウマになるホラー要素も多く、すこしムゴイ描写も多いですよね。
しかし、実はこれは原案者と監督の融合した精神だったのかも?
2000年後は宇宙人?ロボット?
気になるラストの解釈や、賛否わかれたストーリー。
今こそ振り返る!!!
故キューブリックの意思を受け継いだスピルバーグが製作した今作について、
様々な角度から20項目で徹底考察します!
- 故キューブリックの意思を受け継いだスピルバーグ
- 不評の原因:「あれ、なんだこれ、SFじゃなくね?」
- キューブリックとスピルバーグが融合している演出とは
- 両者の共通点:「ユダヤ」「人間社会の支配」「鉄腕アトム」?
- 人類は、地球上で一番偉い動物なのか?そうありたいのか?
- 人間も「子孫を残す」ように”プログラム”された動物である
- ロボットと人間は共生できる?優劣はだれがどう決めるもの?
- 永遠に愛する・永遠に夢を追う。それは、AIには可能だった。
- これは、愛をプログラムされた”人間”の物語。
- マーティンよりデイビットの方がマシ。それでも我が子を選ぶ母。
- 人間の都合に創られ、人間の都合で廃棄。
- 天才子役オスメントくんの演技がヤバすぎる!
- 実は愛されていなかった…サービスを提供するのがロボット?
- 賛否分かれるラスト。デイビットはどうして眠ったのか?
- 海中のお祈りシーンで終わらせるべきだったのか?
- 実は必要だった!2000年後の世界が描かれた意外なワケとは?
- 2000年後も、創造主を探す。つまり「愛」があるロボット?
- 興味や探究心は「愛」があってこそ。未来に残った彼らの意味。
- 近未来版『ピノキオ』だった?童話を表象化した「おとぎ話」。
- 愛・子供・夢・人工知能・おとぎ話・科学技術・地球人類
故キューブリックの意思を受け継いだスピルバーグ
言わずもがな、今作は、キューブリックの残した遺作を、スピルバーグが作品とした映画。
原作はブライアン・オールディスの『スーパートイズ』ですね。
スピルバーグは、1984年に最初にこの話をキューブリックから持ちかけられたといいます。ストーリーに強く惹かれたスピルバーグは、彼の申し出を受け入れます。その後、脚本の修正やキャスティングで時間が経過し、1999年、キューブリックは死去してしまうのです。
キューブリックの夫人から「あなたが撮らないなら、この作品は日の目をみることはない」と言われ、スピルバーグは製作へ取り掛かる。この作品にはこのような「巨匠から巨匠へ、意思を受け継いでいる」経緯があるのです。
このような背景があるため、スピルバーグはキューブリックにリスペクトして映画をつくりあげたといえます。実際、製作総指揮のヤン・ハーランは「脚本を百か所以上も変えているが、作品の根底にあるものは少しも揺らいでいない」と公言していますね(DVD収録のメイキングより)。
どうしてキューブリックがすぐに映像化しなかったかというと、これは当時多くの小説で言われていたことですが「映像化が難しい」と考えられていたからのよう。実際、彼は子供ロボットをつくろうとも思っていたと言われていますし、長々と公開されない理由は、彼が密かにとある子供の成長過程を撮影しているからではないかという噂まで広まっていました。
※最近公開された『DUNE/砂の惑星』も技術的に無理だった映画ですよね…
しかも、映画『スターウォーズ』の人気の高さから、キューブリックはこの作品の映画化を諦めていたともいわれています。その無念の中、90年代に公開された『ジュラシックパーク』の特殊効果を見て、再び映画化の可能性が浮上した、ということなのです。
そう考えると、やはり技術的な撮影の進化には感謝です。
▼映像革命だったのでは!?『ジュラシックパーク』のネタバレ徹底考察コラムはこちら!
ルーカスの『スターウォーズ』新三部作も、『ジュラシックパーク』のCG技術に感銘を受けて創ったと言われているので、映像革命ともいえるべき作品でしょう。
また、『スターウォーズ』『ジュラシックパーク』同様、この映画の音楽をつとめているのは、あのジョン・ウィリアムズ。スゴイのは、冒頭の母子愛情編では、無音と静かな音楽をうまく使いこなして悲しさを演出し、中盤では、死への恐ろしい緊迫感や夢を追うアドベンチャー感のある音楽で冒険物語を助長し、終盤では、SF未来を想起させるような静けさと母親を再会する感動の未来編を、一貫性ないなかでそれぞれ最高なBGMで演出しているんです。
※この三幕が移り変わる構成はキューブリックより「万華鏡」と表現されています
もう、神!!!!!!!!!
こんなにも作風が3回にわたって異なる映画に、
色々な音楽を施すことができるジョン・ウィリアムズは本当に天才です。。!!
※「精神的・普遍的なテーマ」であることから、これこそ音楽の根源だともおっしゃっております。
不評の原因:「あれ、なんだこれ、SFじゃなくね?」
さて、今回のコラムは、哲学的な要素を多めに書きますが、早速、第1のテーマ。
それは、キューブリックらしさとスピルバーグらしさのバランスです。
結論、僕は、中途半端のキューブリックらしさと中途半端のスピルバーグらしさが、この映画を傑作たらしめるに至らなかった最大の原因ではないかと思ってます。
こんなにも素晴らしい作品なのに、アメリカでは興行収入的には失敗している映画。
本国では製作費すら回収できていないです。(世界的な規模でいえば回収できていますが)
スピルバーグは少しキューブリックらしさに引っ張られすぎて、彼の本来の持ち味を出せずにつくったから失敗したのではないかという意見が多くなるのも頷けます。そして、「キューブリック原案でスピルバーグがつくった人工知能のSF作品だ!」という妄想で鑑賞したら、「母子の愛情物語じゃないか、なんだこれは!?!?」という感想で、当時のアメリカ社会では不評だったというのも、推測できます。
その点、人情ものが大好きな日本市場では、まだ愛情物語としての受け皿があるので、ヒットしたともいえますが、内容が少し気持ち悪いと言うかダークなのか、超話題作!!とまではいかなかったのかなと思います。なので、中途半端に娯楽向け・中途半端に哲学向きという点が、前評判のギャップも重なり、この作品を傑作たらしめなかった点といえましょう。
では、両者の「らしさ」とは何でしょうか。
個人的に見解になりますが、ざっくりこんな感じではないでしょうか。
①キューブリック:難解・メッセージ性・哲学的・独特・刺激的描写・映画批評家向け
(『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』、『フルメタルジャケット』)
②スピルバーグ:家族・娯楽向け・テンポが良い・分かりやすく面白い・結局は商業的
(『E.T.』、『インディージョーンズ』、『ジョーズ』、『ジュラシックパーク』)
※「当時のスピルバーグ」という意味のが良いかもしれませんね^^
キューブリックとスピルバーグが融合している演出とは
実際、この映画をこの二つの視点から見ると、確かに両者が融合しているな、と思わざるをえないような構造なのです。(演出的な意味において)
キューブリックらしさ:
- 人間のエゴでロボットを開発して破棄するなんて良いのか?という問いかけ
- 前半のゆったりじわじわ進む展開、決してテンポ良いとは言えない
- 突然気持ち悪いシーンが入ったり、突然テンポが速くなったりする
- 中盤のバンク・フェアのシーンで、必要以上に残忍な刺激的描写が続く
- 愛情、人間とは何か、機械とは何か、などの普遍的な疑問提起がある
スピルバーグらしさ:
- 母子の愛情物語として始まり、最後は温かい雰囲気でそれが結びつく
- ジョーとの冒険パートでは、危機を乗り超えてテンポよく進んでいく
- 家族愛を語り、観客に「大切なものを守ろう」と思わせてくれる
- 気持ちよく伏線回収が行われて、一つの映画としてすっきりしている
- 刺激的なシーンでも、少し笑いを交えてリラックスさせようとしている
こんなところでしょうか。
両者が非常にうまく絡み合っているな、という印象を、僕はむしろ受けるんですよね。
ただ、実際どこまでキューブリックの原案で、どこを変えているのかは明らかになっていないようです。根底にあるテーマは変わっていない、とのことですが、上記にあげたような「雰囲気」はおそらくスピルバーグの加筆部分ではないかな、と思うんですよね。
観終わった後に、感傷的な気持ちになるのはスピルバーグのおかげであり、しかし、どこか「人間のエゴ」を考えさせられる哲学的な点はキューブリックのおかげであり、個人的にはなかなか良い融合だったのではないか、とも思います。
※2時間半が長すぎる、必要以上に残忍なシーンが多いなどの評価は多いですが…
両者の共通点:「ユダヤ」「人間社会の支配」「鉄腕アトム」?
同時に、両者に共通するところもあります。
それは、映画撮影的に、というより、出自にあります。
二人とも、ユダヤ系なんですよね。
中盤のロボット虐殺フェスティバル、実はどこかユダヤのホロコーストをも想起させるのではないか、というコラムがありました。
なるほどな、と思います。
実際、スピルバーグは1993年に『シンドラーのリスト』を公開していますが、中盤シーンの「迫害」はどこかこの作品と似ているような気もします。
支配者とそれに従う者が対立して、構造を変えられてしまうもの、というテーマも、共通しているのかもしれません。『インディージョーンズ/魔宮の伝説』なんか良い例で、今では放送できないレベルでインドでの邪教集団が目立っています。実際インドでは公開されることがなく、批判殺到というのも頷けるほどで、彼らが謎の宗教的リーダーとして描かれていますよね。しかし、そこにインディたち一行が紛れ込むことで、構造に変化が訪れる。
これは、人類同士の「構造」の話ですが、映画『ジュラシックパーク』では、生態系の中の「構造」でこれを問います。最強と思われていた人類が、自らの手で復活させた恐竜によって、そのポジションを譲らざるを得なくなる、それがあのシリーズの根幹とするテーマでもあります。
勝手に恐竜を蘇らせて、勝手に殺戮している人類を描くという意味では、
今回の『A.I.』では、ロボットを勝手に創って、勝手に破壊していくという意味で似ています。
キューブリックについては、『2001年宇宙の旅』もご存知の通り、人工知能HALが人類と争い始めることから物語は大きく動き始めます。これも、「人間様」が本当に一番トップなのか問題提起しています。あの映画は「宇宙人」「人工知能」などといった多くの近未来SFコンセプトを取り扱っていながら、「人間社会」という普遍的なテーマを採用している点が、ヒットしているゆえんでもあるのではないでしょうか。
また、二人の巨匠とも実はどちらも『鉄腕アトム』のファン。ロボをつくりあげ、そこに「心を入れてあげよう」なんていう御茶ノ水博士のシーンは、どこか人工知能映画の原点ともいえます。『鉄腕アトム』に通ずるところがあるのも、共通点かもしれませんね。
人類は、地球上で一番偉い動物なのか?そうありたいのか?
さて、次なる議題にいきましょう。
「構造」という話が出たので、この議題を映画から考えてみます。
人間は、一番偉いのか?偉くありたい生き物なのか?
無意識に、我々人類は「偉くありたい」とどこかで思っているものだと思います。
「明日から、猿がご主人様です。すべて猿の言うことを聞きなさい」と言われて、すぐに「はい、分かりました!」なんて言える人はいないでしょう。
※よほどの『猿の惑星』ファンを除くw
人類が文明を築いてから、人類同士の醜い争いは続いていても、人類より上に立とうとする生命体は現れませんでした。生態系そのものを揺るがす戦争は、いまだかつて起きていないので、検証もできないという表現が正しいでしょう。
だからこそ、『ターミネータ―』はある意味でショッキングなSF映画として、大ヒットしたとも捉えることができます。
しかし、一体どうして地球人類は「一番偉くありたい」と思っているのでしょうか。
自分の家を守りたいから?
自分の命が危なくなるから?
自分の既得権益が奪われるのが嫌だから?
いろいろ考えられますが、これは身も蓋もない言い方をすると、
僕らも動物だからではないでしょうか。
動物が生きる理由はただ一つで、子孫(コピー)を残すことです。
人間も「子孫を残す」ように”プログラム”された動物である
我々は、子孫のDNAを残すようにプログラムされているので、この数千年間、文明の発展とともに種の存続も途絶えることなく生きることができました。
「プログラムされている」というと、どこか作為的に聞こえるかもしれません(もしくは一部から批判が来るかもしれません)が、実際その可能性だってありますよね。人間を含め、地球上の動物は遺伝子的に、生きるためにコピーを残すように刷り込まれています。体は単なる器にすぎません。
なので、先ほどの「人間はどうして偉くありたいのか?」に答えるとすると、それは、
「自分たちの子孫を残したいから」
それも、より安全に、より効率よく、より楽しく、という名の欲をプラスして。
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明日から猿がご主人様になって、まず心配するのは、
死なずに生きられるのか、大切な人は守れるのか、自分の資産はどうなるのか、
といった点かと思いますが、もしそれらが保証された後に気になることはなんでしょうか?
おそらくは子孫、もう少し温かい表現にすると「パートナー」「家族」「子供」なはずです。
だからこそ、自分たちは偉くありたいと願っている。
そう考えるのが妥当ではないでしょうか。
本作でもそういった要素はしっかり反映されています。
地球温暖化により地球は危機に陥っており、妊娠コントロールが行われている近未来社会。
子供を愛するあまりに「愛のあるロボット」を開発したホビー博士、
子供を愛したあまりに「愛のあるロボット」を家庭に招き入れたディビッドの両親。
彼ら彼女らは、いずれも「自分たちの子供」のために動いています。
これは、やはり我々人間には「子孫を残すべき」というプログラムがあるとしか思えません。
ロボットと人間は共生できる?優劣はだれがどう決めるもの?
では、これに付随して次の議題。
ロボットは、人間と共生できるのか?何をもって優劣を決めるのか?
手垢のついたトピックですが、この映画でもやはりこの点が常に問われています。
古今東西の人工知能作品で言われることですが、ロボットが人間そっくりのレベルまで技術発達したとき、果たしてそれを「ロボット」と区別することができるのか。
「嫌悪感」や「不気味」といった主観的な要素は考えず、この映画的に地球が危機に陥っている時であれば、むしろ生産性向上にもつながる存在のはず。人間は、自らの社会の持続と栄華のために、機械と共生すべき事態にまで進んでしまっているともいえましょう。
しかし、どこかで先ほどの問題になり「ロボットに命令されるのは嫌だ」「ロボットに仕事が奪われるのは嫌だ」「ロボットと一緒の生活なんて嫌だ」という考えが残るでしょう。
実際、この映画での中盤シーンのバンク・ショーはまぎれもなく「ロボットを滅ぼすべき」をスローガンとしたお祭りです。ロボットがいない方が仕事は残る、ロボットなんて滅亡した方が人間は豊かになれる、そういった精神論を表象化したのがあのフェスですよね。
ショーといえば、余談ですが、捕まったロボットの中で「痛み感知スイッチを落としてくれ」「おれは75年前の雑誌で人気のロボットって特集されたんだぞ!」なんていうシーンがあります。ちょっと笑えますよね。たぶんスピルバーグの差し込みじゃないかと思うのですが、ただの殺戮シーンに見えてちょっとお笑いを混ぜて観客に「幅」を持たせているんですよね。
また、デイビットという子供を見て、「まだ子供じゃないの?可哀そうよ!」「ロボットは命乞いしないわ!」という観客の声で、助かるシーン、ここも本当はどのような展開だったのか気になります。キューブリックだったら、もう少しひねった方法で二人を助けていたのかな(例えば、寸前で別の取引業者が来て高額の条件で買い取る)とか。スピルバーグらしい、一般大衆が共感するような「脱出方法」によりカタルシス効果を与える点、少し原案が気になるところ。
さて、シンギュラリティなど最近では騒がれていますが、ロボットによってどんどんと人間の仕事も減っています。いずれ、ペッパー君やルンバが、あのようなショーで解体される光景がやってくるのでしょうか(勿論、2001年当時はこのようなロボットはなかったはずです…ということは…)
永遠に愛する・永遠に夢を追う。それは、AIには可能だった。
そして、“優劣を決める”という話ですが、この物語に通底するものとして、皮肉にもロボットの方が人間の求めるものを追い続けるという点では「優秀」ではないか、という点があると思うんですよね。
「永遠の愛」や「信じる心」、「夢を追う」ことについて、ロボットは人間よりも一貫して強く持つことができます。それは「プログラム」されているからなのですが、このプログラムさえあれば、人が求めている「愛」や「夢」は永遠なものになるのと考えると、そんなにおかしなことでしょうか?
そう思えば、ロボットは、人間よりも優秀ですし、むしろ多くの人間が求めている「人間の理想形」はロボットに近いのではないでしょうか。
永遠の愛。
夢を見続ける純粋な気持ち。
なにかを信じ、それを貫く情熱。
そして、いつまでも生き続ける健康体。
誰もが求めるものを、実はロボットは兼ね備えている。
それは、物理的な側面のみならず、精神的な側面まで。
母親をいつまでも愛し続ける力を持っていたデイビット。
そして、これは個人的に一番印象的なのですが、ブルーフェアリーを見つけるまで、そして見つけた後もずっと願い続けているんですよね、ディビット。人工知能でも「おとぎ話」を信じて、追い続ける。ことができる。機械でも夢をみています。なるほどなぁと思いました。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』という作品でも昔から議題提起されますが、やはり「夢をみるかどうか」はロボットと人間の境界線なんですよね。
これは、愛をプログラムされた”人間”の物語。
さて、「愛」というワードが出たので、次の議題ですが、これは映画の冒頭でも描かれていいます。
ある女子生徒がホビー博士に「ロボットから愛されるなら、人間もその愛に応える義務があるのではないですか?」と問いかけるのですが、特に博士は何の反応もしません。
これは、読者に考えさせるという意味で、沈黙の演出なのかもしれません。
実際、デイビットは、「愛をプログラム」されていることから、終始母親を愛し続けます。
それは2000年後も同じ。
しかし、対して母親はその愛を返すことを放棄します。
というか、あの山奥に捨てられるシーンは、かなり強烈に胸に打たれるところがあります。
「置いていかないで!!」と泣き叫ぶデイビットを、同じく泣きながら振りほどき車に急ぐ母親。デイビットが母親の愛情を独占したいがために、マーティンと衝突してしまい、結果、不要とみなされてしまった背景に共感は出来るものの、デイビット視点になると、痛烈に胸が痛くなるのです。
マーティンといえば、この映画は「子供」という観点も徹底的に追及しています。
「母親の愛情にヤキモチやいているのよ」みたいな発言がありますが、事実でしょう。
子供は母親の愛情を受けて育っていきます。ある意味で、それまでは独立できない、不完全な生き物。しかし、それがあるからこそ、その後に思春期を通して成長し、自立していくのです。
それを考えると、そもそも成長することがないデイビットに、愛情を注ぐ必要はあるのか、とも思えますよね。一生子供のままなのですが、母親としてはただ単にその場しのぎの愛情でしかないわけです。
マーティンよりデイビットの方がマシ。それでも我が子を選ぶ母。
そして、なによりも面白い点は、あのマーティンが結構悪ガキなんですよ。
誕生日パーティーでデイビットにナイフつきさそうとしたり、母親の髪の毛をデイビットに切らせたり、ほうれん草食べまくってデイビットの体を壊させたり。
※いたずらとはいえ、オイタが過ぎるってやつです…
ちなみに、マーティンたちがディビッドとの違いを「オーガ(有機体)」と「メカ(機械)」に分けていじめるシーンがありますが、さりげなく「Technically No」って言っているシーンがあるんですよね。欧米では元々は「技術的には」という意味ですが、世俗化したのか今では「厳密には違うよ」といった意味合いでも使われるフレーズです。マーティンたちは子供ながら、「技術」「厳密」の二つの意味を込めて嘲笑っていたのかなと思いました笑
ただ、これらを見ると、ほとんどの方が思うはずです。
え、ホンモノの息子より、デイビットの方が良くない??
しかし、母親はやっぱり血の繋がった息子を優先するんですよ。
そこは、ホンモノの方が優秀とか人間らしいとかかわいいとか、そういう意味ではなく、
自分の遺伝子的にホンモノを育てたいとプログラムされているからに他なりません。
そして、そもそもマーティンとデイビットが喧嘩しなければ、デイビットを破棄する必要もなかったのですから、すべての元凶はマーティンにあるといっても過言ではありません。
そんな「デイビットを追い出した」マーティンを、母親は優先し、愛情を注いだ。
ここにも、なんだかモヤっとする疑問符が心に残るんです。
しかし、それこそが人間なのです。
母親は、機械ではなく、人間なのです。。。うーむ。
母親に、テディと一緒に置き去りにされたデイビット。
なんとも切ない、可哀そうなシーンです。
そう思うのは、おそらく誰しもが経験する普遍的な体験現象だからでしょう。
母親と子供という強いつながりを通して成長する人間にとって、
その母親から突き放されるというのは、胸が張り裂ける想いがするのです。
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この映画は「子供に見せない方がいい」「子供はトラウマになる」といったレビューが散見されるのですが、中盤の残忍なバンク・フェアと、この置き去りシーンがトラウマの最大の原因でしょう(笑)。サイドミラーにうつった我が子ディビッドを置いたまま、車で家に帰っていくシーンは、非常に目に焼き付くところですよね。思い出すだけで胸が痛い。。。音楽もまた怖さを増長させています。
しかし、映画はこの親子愛を描くプロットかと思えば、ここからがらりとかわります。
※音楽やテンポもいきなり変わってくるので、この構成にはびっくりしました!!
人間の都合に創られ、人間の都合で廃棄。
そう、物語は、『ロボットと人間の確執』を描いていく方針へと変わっていくのです。
自分でつくっておいて、放棄。
なんともエゴな人間たち。
人間もその愛にこたえる必要があるのではないか?
これこそ、今の我々に問われている問題と似ているのではないでしょうか。
現在、ディープ・ラーニングを始め、ロボティクス産業はより高度な技術を要した機械の開発に取り組んでいます。では、いざ、魂を持ち始めたAIができた時、すなわち、愛情を持つことができるAIが誕生したとき、自分たちはそれに見合う行動ができるのでしょうか?
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それができないと分かっているのに、そのようなロボットを開発する行為は、
人間が「一番偉い」から行ってもよいというなのでしょうか。
なかなかに深い問題が冒頭から描かれていますが、
実は最後で「そういう意味か…うぅっぅーーん」と考えさせられる伏線回収でもあるのです。
また、ジョーは中盤で「人間たちは利口なロボットをつくりすぎた。その間違ったツケがやってきた」みたいなことを言っていますが、まさに言い得て妙ですよね。自分たちより便利なものをつくっておきながら、都合が悪くなると回収して廃棄。
そういう意味では、生みの親であるホビー博士は、壮大な実験を行っていたようです。
というのも、ディビッドが自ら「愛」を探すために「おとぎ話」を求めて、マンハッタンの「地の果て」までやってくることを計算していたのですから。
天才子役オスメントくんの演技がヤバすぎる!
ホビー博士の研究室に訪れて絶望している時のディビッドを演じるオスメントくん、個人的にはこの映画のなかの彼の表情では一番印象的ですね。ハーレイ・ジョエル・オスメントといえば、『シックス・センス』や『フォレスト・ガンプ』で天才子役として一躍有名となった俳優ですが、この映画でも本当に光っていますね~!!
ウィンストン両親の家に訪れたときの表情、パスコードを言われて「Mammy!」と呼ばれるようになったときの様子、自らの愛を確かめようとする行動や、冒険を始めるときの葛藤や迷い、勇気ある決断の表情、そしてラストの感動的な、安心しているような顔など、本当に豊かな演技をしていて、感服です。水中シーンのためにダイビングも勉強。また、瞬きも敢えてせずに、すこしロボットらしさを演出しているようで、この辺も役者としての徹底ぶりもスゴイ。
実際、最初は、SF的な衣装や雰囲気でロボット感があったようですが、脚本が進んでいくなかで、人間っぽくしたようです。また、オスメント君といえば、彼の父親は俳優だったらしく、演技指導などもしてくれたみたいです。「父親とスティーブンと一緒につくった」ってインタビューで言ってましたね。「心温まる映画にしたかった」とも公言しており、彼の思いが詰まっているんだなと実感します。
話を戻すと、ホビー博士は、実は亡くなった息子の影を追い求めるばかり、ディビットなるロボットの開発をチームで行っていたんですね。冒頭で登場している教授が、ホビー博士だったのかと分かるのも、伏線回収ですよね。
博士が思ったように、ディビットはプログラムされたかのようにマンハッタンへやってきたわけです。ある意味『トータルリコール』のシュワちゃんが、自分を求めてやってきたら、記憶を奪われていたことを思い知る、みたいなシーンとも似ています。ディビットは、無数にある「人造人間」を観て、絶望してしまいます。ここの音楽とカメラワークも、絶妙に不気味すぎて恐ろしいですよね。
▼どこからが夢?おれは騙されていたのか?『トータルリコール』ネタバレ徹底コラム!
実は愛されていなかった…サービスを提供するのがロボット?
客観的にみると、ディビットは結局、人間が指示したプログラム通りに動いていただけ、とも考えられます。ジョーも中盤で発言していますが、所詮は「お客のためにサービスしている」だけだと。母親は愛していたのではなく、母を愛するというサービスを提供するためのロボットだったのだと。
そう考えると、実は「サービス提供者」としてのディビットは、ホビー博士の考える通りに役目を追って戻ってきたわけです。実に悲しい、切ない物語ですよね。
個人的には、ジョーのこの発言も結構印象深いです。
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「自分は唯一無二。母親は自分を愛してくれていた」と考えるディビット。
しかし、セックス・ロボットとして自覚しているジョーは「顧客を満足させるために存在しているのが我々」と考えます。
同じロボットでも、植え込まれたプログラムが違うだけで、こんなにも意思に乖離があるのです。
誰がどう決めるのでしょう。
自分がサービスを提供しているだけの存在なのかどうか。
真に信頼するものって何なのだろうか。
ちなみに、ジョーは、ドラキュラ(吸血鬼)とエルヴィス・プレスリーがモチーフのよう。また、特殊メイクもいろいろ凝っているようで、最初はもう少し機械的の予定だったみたいですが、人間らしさを補うために変更になったようです。あごの部分だけ少しメイクで分厚くしたり、いろいろ工夫されているキャラクターらしいですよ。
賛否分かれるラスト。デイビットはどうして眠ったのか?
そして、大きな考察ポイントは、ラストでしょう。
ここは、結構解釈が分かれるようですが、敢えてそうしているように思えます。
個人的には、以下の筋書きだったのではないか、と思います。
ラスト、どうしてディビットは眠ることができたのか?=人間になることができたのか?
一日限りの母親クローンとのやり取りは、感動もののシーンですよね。
なかなかに切ない、胸を打たれるシーン。
こういうのを、ペーソスが漂う情景というのか。
さりげなく、前半で母親の髪を切り取ったシーンや、コーヒーメーカーでコーヒーをつくるシーン、かくれんぼなどのシーンが意味があったことに気付きます。なんだか前半部分ながいなーって思うんですが、実はここに繋がっているんですよね!鮮やかお見事!
※生まれたときに「鳥を見た」というのも、気づいた時は鳥肌もの…
そして、母親からたっぷり愛情を受けることできたラスト。
母親が眠るタイミングで、ディビットも眠り始めるのです。
ロボットは食べない、眠らない、エネルギーも無限のはず。どうして眠ったのか。
それは、スペシャリストとよばれる未来のロボットたちがディビットを「機能停止」にしたからだと解釈しています。
なぜなら、ディビットがそうお願いしたからです。
ディビット自身がどこまで確信していたかは分かりませんが、人類の記憶データ取得との引き換えに、人間になりたいと願っていたディビットの願いを叶える必要があったスペシャリストたちは、デイビットを人間にする(=眠ることができる)ようにしたのです。
そして、母親を蘇らせると決めた後に、スペシャリストたちはわざわざディビットのもとへやってきて、事前にその条件を伝えてきます。この瞬間こそ、スペシャリストたちがディビットの本当の願いをヒアリングしていた時だったのです。
海中のお祈りシーンで終わらせるべきだったのか?
「人間になりたい」と切に願ったディビット。
スペシャリストたちは、それで、彼がクローン母と一緒に寝るタイミングで、彼の機能を停止させたのです。凍結状態にあったディビットを蘇らせることができた彼らです、彼の機能を停止させることも簡単でしょう。
だからこそ、ディビットはあのまま寝ることができたのではないでしょうか。
つまり、ずっと願っていた「母親の愛」を手に入れて、そのプログラムとしての役目を終えたのです。
ラストについては色々と意見があるようです。
そもそもあの近未来社会シーンはいらなかったのでは、というのがまずあります。
確かに、水中でブルーフェアリーを見つけて、祈り続けているところで終了。
それもそれで良いエンディングかなと思います。
機械でもおとぎ話を信じて祈り続けるのか。。。
とちょっと哲学的な余韻を残してエンド!というのも十分ありな展開。
※ちなみに、スペシャリストたちは、バレエの綺麗な姿勢やアレク・ギネスの静けさ(スターウォーズⅣのオビ=ワン)のようなイメージだったとか。また、目がかすかに見えたりするマスクのところは、ロボットの残像でしょうか。
実は必要だった!2000年後の世界が描かれた意外なワケとは?
しかし、2000年後の世界が描かれた理由としては、個人的には「ディビットが夢を叶え、そして死ぬことができる(=人間になることができる)」という意味で報われるシーンを追加するために必要不可欠だったから、ではないでしょうか。
ディビットが本当の愛を手に入れるために、母親クローンの登場が必要だった。
その為には、まずは近未来である必要があります。
しかし、クローンを手に入れるためには、その超技術と引き換えに、なにかの代償が必要になる。そこで、人類の記憶データと引き換えという設定が登場するのですが、人類がほかにもたくさん存在していたら意味がありません。
なので、2000年後で、記憶データは唯一ディビットしか持っておらず、だからこそ、クローン母親をつくりあげるという展開に持っていけた、と考えられませんか。
スペシャリストといえば、「人類が残した最新型のロボット集団」とされており、2000年後のロボットたちなのですが、一時、宇宙人ではないかという説もありました。
確かに、見た目はまるで『スターウォーズⅡ』に出てくるカミーノアンのように首が長く、のっぺりした表情。どこかSF映画にでてくる宇宙人と既視感がありますよね。宇宙人が地球を滅ぼした、もしくは、滅びた地球に宇宙人がやってきた、とも考えられますが、Wikipediaにもこれは未来のロボットとあるので、宇宙人ではなさそうです。
この映画のテーマから考えても、結局、人よりもロボットの方が優秀だったが為に、未来は「ロボットしかいない社会」なのではないでしょうか。
2000年後も、創造主を探す。つまり「愛」があるロボット?
創造主のことをもっと知りたくて、ディビットの記憶データを探ったり、情報を集める彼ら。この映画のテーマのひとつである「ロボットと人間の共生」は、結局かなわなかったのでしょう。それは、人間のエゴゆえなのでしょうか、もしくは、ロボットを劣等なツールとしかみることができなかった人間という生き物の不完全性ゆえでしょうか。興味深いところです。
そして、創造主たちのことをもっと知りたいと考えているロボットにも、注目です。
というのも、これ、今の人間たちと似ていませんか。
人間の創造主は、神様だ!アダムとイブをお創りになったのだ!
という考えが神話的に2000年以上も語り継がれています。
類人猿から進化したのだろうと科学的な視座からアプローチがあるにも関わらず、どこかで人類は自分たちの起源についてもっと知りたいと思っている。
最近では「宇宙からやってきた遺伝子ではないか」みたいな説もあります。
そして、2000年後のロボットたちも、また、創造主を探しているのです。
「人間様が我々をつくってくださったんだ!」
「そんなことはない、自我を持った我々は神様だ!」
そういった具合に、スペシャリストたちの間では言われているのかもしれません。
これは偶然でしょうか。
この問題提起も、一つ、近未来パートを挿入した理由だと思うのです。
ロボットといえども、結局ルーツを探す。
それは、好奇心や興味です。
そして好奇心や興味関心というのは、言うならば、愛がなくては不可能です。
例えば、車についてもっと知ろうと思った時、実際に車について調べようと思うと、そこには少なからず愛がなくては本格的な行動に出ることはないはずです。
大小関わらず、どこかに「関心」「愛」があるからこそ、人は好奇心をもって探究することができます。
興味や探究心は「愛」があってこそ。未来に残った彼らの意味。
最新ロボットたちも、同じではないでしょうか。
別にルーツや歴史なんて知らなくても、生活はできるでしょう。
歴史を知らないからと言って、今の生活が脅かされることなんてないはずですし、なにかの生産性が急激に上がることもないでしょう。
しかし、彼らが自分たちについて知りたがっているのは、彼らに「愛」があるからです。
だからこそ、彼らはディビットに対しても「人間にさせてあげる」愛を持っていたと考えられませんか。
ここから言えることは、ロボットにも「愛」が施されることはできるということです。
そして、それこそが数千年先まで生きることができる”生き物”だということです。
ディビットの時代では、批難の嵐だった「愛のあるロボット」。
2000年後に彼らが世界を席巻しているのは、「愛」があるからこそ生き延びたのです。
WarnerBros/Dreamworks/Photofest/MediaVastJapn
そう考えると、賛否分かれるあの近未来パートとラストのエンディング、個人的には良かったと思うんですよね。
余談ですが、テディこそ、ディビットの時代にふさわしいロボットだったといえます。ディビットほどの愛を欲す様子はなく、電源を切ろうといつでも切れ、人間のような表情をすることもない。いわば、ディビットとロボットの間にあるようなテディは、終始良い味を出しています。最後の髪の毛のシーンなんか鳥肌ものですが、テディがいることで、ディビットの切なさが半減されており、とても良い調整役になっています。
なんとなく歩き方がおじさんくさいところも、魅力的でうまいなぁと笑
※重さは、なんと15キロ…オスメント君もあれ持ちながら走るの大変だったそうですw
緊迫した状況でもテディがいることで、少し安心感があるのは、これもスピルバーグ演出のおかげみたいですね。ぷーさんとかいろいろ参考にしているとか。
近未来版『ピノキオ』だった?童話を表象化した「おとぎ話」。
この作品が少し低評価にある理由として「SFというより、おとぎ話じゃないか」という不満が大きかったと思います。
巨匠スピルバーグのSF!と聞けば、それは『未知との遭遇』や『E.T』から更に映像的に進化した人工知能のSF映画を期待した人は多かったかと思います。しかし、実際は、人間になりたい少年が青い妖精を探すというおとぎ話、ディズニーよりの作風になっています。
多くの人がそれで評価を下げていると思うのですが、この点も、個人的には実は結構意味があったのではないかと思うんですよね。
実際、スピルバーグは、脚本家のイアン・ワトソンに対して『ピノキオ』のようなストーリーを取り入れてほしいとお願いしたといいます。ピノキオは日本でも有名な童話ですが、木の人形が人間になりたいために行動し続ける中、色々と悪い人に騙されていく冒険物語です。最後に青い妖精に会って、嘘をついたので鼻が伸びていく…という話なので、鼻が伸びるという点以外は、結構通ずるものがあります。
しかし、確かにこれは近未来版ピノキオではないか、とも思えるわけです。
当時は、木の人形でしたが、近未来では機械の人形です。
機械の人形も、やっぱりホンモノの人形になりたくて、自らと葛藤しながら冒険していく。
そして、青い妖精に出会って、“make me a real boy…”とお願いをする。
現代版ピノキオだと思えば、『A.I.』はある意味で童話をSF的にリアル化した作品ともいえるのではないでしょうか。
そして、またある意味では『オズの魔法使い』的な側面もあります。
デイビット、テディ、ジョーが妖精を探しに行くなんてシーンもそっくりです。
さりげなく物語の根幹で、童話を人工知能AIに持ち込んでいるところ、さすがですよね!
愛・子供・夢・人工知能・おとぎ話・科学技術・地球人類
さて、今回も長くなりましたが、皆さんはどういった感想を持ったでしょうか。
愛や子供、夢といった普遍的な要素。
人工知能と人間と言う微妙な境界線。
地球人類のエゴイズムを問う哲学。
様々な角度から考察が可能なこの作品、個人的には、掛け値なしに良作だと思っています。
傑作たらしめなかったもの、それはSFやAI、スピルバーグといった言葉に対する単なる「期待値とのギャップ(先入観)」だったのかもしれません。
最後には「スタンリーにささぐ」でテロップが出ますが、キューブリックが観ていたらどんな感想だったのかも気になりますね。
なかなかに哲学的なテーマが強い今作、すこし自分の状況が変わるとまた見方も変わってくるかと思います。ぜひこの機会にご覧あれ!!
※ちなみに、ロゴの『A.I.』がうますぎますよね。自分がつくられた人工知能であることが読み取れる、なんとも芸術的なタイトルロゴだと思います。
それではまた!!
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